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二刀流のパラアスリート・山本篤選手が東京五輪に向けて思うこと──。「自分の限界がどこかを探しにいっている」2018/12/12

Cheer up!アスリート2020/パラ陸上・山本篤

 今回は、パラリンピック競技の中でも陸上競技に注目。スノーボードでもパラリンピック出場を果たした二刀流が、東京五輪を前に陸上競技について何を考え、そして何を思っているのか──。熱き心を燃やす義足のアスリートに迫る。

限界とは、どこなのか──

 それは突然の、不運なアクシデントだった。子どものころからスポーツが大好きで小学校では野球、中学と高校ではバレーボール部に所属していた。体を動かすことが、当たり前の毎日だった。しかし、当時高校2年生だった、2000年3月── 。

「バイクで自損事故をおこしてしまい、左足を切断しました。原因はすべて自分にあって、誰かが悪いわけでもない。その日だけはすごく落ち込みましたが、足を失っても何がしたいか考えるとやっぱりスポーツだったんです。当時一番好きだった、スノーボードがしたかった。それをやるためには、普通に歩けるだけじゃいけないと思って、リハビリを頑張りました」

 一般の生活に戻るだけではなく、スポーツができる身体に戻すためのリハビリ。さぞ過酷だっただろうと想像するが、彼は事も無げに言う。

「皆さんが想像しているより、大変ではなかったですよ。ただ与えられていたメニューは、リハビリの範疇を超えていた気はします(笑)。スポーツをすることが目標だったので、通常のリハビリ以上にしっかりした筋力をつけるためのトレーニングをしていましたね。スノーボードがしたかったので、一生懸命にやっていました。リハビリはそのために必要だと分かっていたので、苦しいとは感じなかった。むしろ筋肉がついたりできることが増えたりと、成長を実感できて楽しかったです」

 リハビリに懸命に取り組み、スノーボードができるまでになった。しかしスポーツに魅せられて生きてきた男は、それだけでは飽き足らなかった。

「冬はスノーボードがあるけど、夏は何かないかなと探していたところで、たまたま陸上の義足と出会ったんです。この義足がカッコ良くて。これをつけて走れるなら、僕も走りたいと思ったのが、陸上を始めたきっかけ。ただトレーニングをしても目標がないと面白くないので、それじゃあ試合に出てみようと」

 02年に初めて大会に出ると、1位の選手はずっと遠くにいた。勝った選手と自分とでは経験に差があることは分かっていたが、悔しい思いは抑え切れなかった。

「それから3カ月くらい試合がない間に、合宿などで集中して練習して、そこで急成長したんです。最初の大会で出した記録は100mが17秒36でしたが、次の試合での記録は14秒06。3カ月で3秒くらい縮まって、トップ選手に並ぶくらいになったんです。身体を鍛えたこともそうですが、義足の使い方が分かったことが大きかったですね」

 そこからも努力を重ね、08年の北京大会でついにパラリンピックの舞台にまでたどり着く。そして初出場にして、走幅跳で銀メダル獲得の快挙を達成。

「鳥の巣(北京五輪のメイン会場)が満員で、こんなに観客がいるんだって身震いしました。最初の100mは直前に新しい義足に換えて、それが馴染まなくて大失敗。初めてだったので、不安や迷いがあったんでしょうね。でも2日後にあった走幅跳で、その失敗を教訓にしていい試合ができた。失敗したことをひとつの大会のなかで解決できたので、そこが良かったと思っています」

 その後は12年ロンドン、16年リオと3大会連続で出場。リオでは再び、走幅跳で銀メダルを手にした。さらに18年の平昌ではスノーボード日本代表として冬季パラリンピックに初出場。二刀流での活躍も見せたパラアスリートも、現在36歳。競技の世界から身を引くことが、現実感を伴う年齢になった。

「現役を退く形は、自分でも色々と考えています。一番いいところで辞めるのか、やりたいところまでやるのか。何がいいんだろうって。大阪体育大学へ進学して、自分の競技活動を客観視できるようにもなりました。競技生活は最後のほうに近づいていると思いますが、まだ本当の最後まではきていない。自分はあとどれくらいいけるのか、それを探っている状態ですね」

 第一戦で戦うアスリートとして夕暮れ時に差し掛かっていることは自覚している。何が今の自身を、競技に向かわせるのか。

「この先に、東京があるからです。2020年のパラリンピックが東京に来ていなかったら、辞めていた可能性もあったと思う。それに自分自身の記録はまだ伸びるだろうという気持ちもあって、自分の限界がどこかを探しにいっている。それがモチベーションなのかな」

 今、彼の頭の中にあるのは、東京パラリンピックの舞台に立つことだけ。その日を迎えるため、義足のアスリートは毎日を全力で駆けている。

Cheer up!アスリート2020/パラ陸上・山本篤
Cheer up!アスリート2020/パラ陸上・山本篤

【TVガイドからQuestion】

Q1 印象に残っているスポーツの名場面を教えて!
色々ありますけど、最近では平昌オリンピックでの、スピードスケートの小平奈緒選手が金メダルをとった場面をすごく覚えていますね。ライバルのイサンファ選手との関係性にドラマもあったし、印象に残っています。

Q2 好きなTV番組/音楽を教えて!
TV番組は「クレイジージャーニー」(TBS系)が大好きです。音楽は、安室奈美恵さんの「Hero」ですね。リオ五輪の(NHKの放送の)テーマソングだったとこともあって特に印象深いんだと思います。今でもたまに聞きますね。

Q3 “2020”にちなんで20年前と20年後の自分へ伝えたいメッセージを教えて!
20年前の自分には、まだ左足がありましたから「このあと、大ハプニングが起こるよ」って(笑)。「頑張れ」って言いたいですね。20年後の自分には…「パラスポーツをより有名にしてくれましたか」とたずねてみたいです。

Cheer up!アスリート2020/パラ陸上・山本篤

【パラリンピック陸上とは?】
パラリンピックの陸上競技は、幅広い障がいを対象とすることもあり夏季大会の競技の中で参加人数が最も多い。対象とする障がいが視覚障がいや知的障がいから麻痺や四肢の欠損など多岐にわたるため、クラス分けをすることで極力条件をそろえ、公平にレースが行えるようにしている。障がいの種類や程度、運動機能などに応じてクラス分けし、レースはクラスごと、あるいは隣り合うクラスを合わせた統合クラス(コンバインド)で行われる。

【プロフィール】

山本篤(やまもと あつし)
1982年4月19日、静岡県生まれ。おうし座。O型。

▶︎幼少期からスポーツ少年だったが、高校2年生の春休みにバイク事故を起こして左足を切断。高校卒業後に義肢装具士を目指して専門学校に進み、そのころに陸上競技と出合う。義肢装具士の国家資格を取得したのち、競技に打ち込むため大阪体育大学に進学。記録を伸ばし、国内最高峰のパラアスリートの一人に。現在は同大学の客員准教授も務める。

▶︎夏のパラリンピックには2008年の北京から3大会連続で出場している。自身の競技者としての強さの秘密を「義肢装具士であり、自分の研究をしているところかな。どうしたら速く走れるか、遠くに跳べるか。イメージしたことを、身体に落とし込んで試しています。知識と現場のトレーニングとが、上手く融合できている」と語る。

取材・文/カワサキマサシ 撮影/吉岡隆



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